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JAPAN珍聞

ジャパンちんぶん

村上春樹で読む古典落語 「鮑のし」編

1

 

僕は仕事を辞めたあと、半年ばかり殆ど何もせずにただぼんやりと生きていた。

何をする気も起きなかったのだ。


「朝ごはん、何がある?」と僕は彼女に尋ねる。
「特に変わったものはないわね」と彼女は言う。
「ハムエッグを作って、コーヒーを入れて、トーストを焼いてくれる?」と僕は言う。
「ねえ、これだけは覚えておいて。あなたが半年も仕事をしていないのにそんな贅沢なものがこの家にあるわけないじゃない」
彼女はそう言うと僕の顔をじっと見つめた。僕は黙って話の続きを待った。
「そうでしょ?」
「だろうね」
「働かない男なんて最低よ」
「君だって働いてないぜ」
「信じられないわ」
彼女は確かに真剣に腹を立てているようだった。

「羊男さんに象徴的御援助をお願いしてきて」と彼女は言った。

 

 

 

2

 

「ねえ、羊男さん」と僕は訊ねてみた。

「やあ、よく来たね」と羊男が言って、僕の手を取った。

「君はここに本を借りに来たのかい?」
「いえ」と僕は言った。
「さあ、話してごらん」
「大丈夫、心配することはないよ。ここから全てが始まるし、ここで全てが終わるんだ」と羊男は静かな声で言った。
「このように突然お伺いいたしましてお願いというのも誠に心苦しいのですが、ええ、たいしたことじゃないんです。ようするに寄付ですね」
「象徴的援助です」と僕は言った。
「さて」と羊男は言った
「そして今、君は僕を必要としている。君はお金がないからだ」
僕はそれについてしばらく考えてみた。「たぶんそのとおりだろう。羊男さんの言う通りだ。僕にはお金がない。でも僕はお金を借りることができれば、お金があることになるんだよ。ねえ、僕はもう一度羊男さんにお金を借りてみたい。そしてそのためには羊男さんの力が必要なんだ」
羊男は黙っていた。
僕にもそれ以上言うべきことはなかった。ずいぶん長い間その沈黙は続いた。それからゆっくりと羊男は財布から百円玉を5枚取り出して僕の前に置いた。「少なくて悪いけれど」
「いえいえ」と僕は言った。

「本当にお気持ちだけでいいんです」

 

 

 

3

 

1973年の5月。

「ねえ、このお金でスモーク・サーモン・サンドウィッチとビールを買ってこようよ。」と僕は言った。
「黙りなさい」と彼女がぴしゃりと言った。僕は黙った。
「ねえ、鯛の尾頭付きでも買ってきて」と彼女は言った。
「今から?」と僕は彼女に訊ねてみた。

やれやれ。

僕は百円玉5枚を握りしめて「ジェイズ・フィッシュ」に顔を出した。
ジェイは椅子に座って煙草を吸っているところだった。
「鯛の尾頭付きあるかい?」
「あるよ」とジェイが機嫌良さそうに言った。
「いくら?」と僕は訊ねてみた。
「5千円」とジェイが言った。
「よかったら、五百円にまけてもらえないかな?」
「五百円しかないのかい?」
「ああ、もう長いこと働いてないからね。この五百円だって羊男さんに象徴的御援助をお願いしてきて借りてきたものなんだ」と僕はジェイに向かってそう言った。
「それならこれなんかどうかな」
「アワビ」とジェイは言った。
「ねえ、五百円で買えるのかい?」
「もちろん」
「ありがとう」と僕は言った。


「アワビを買ってくるなんて、なんだか馬鹿みたいね」と彼女は言った。
「そうかい?」
「鯛の尾頭付きを買ってきてと言ったはずよ」
「仕方がなかったんだ」と僕は言った。
「説明して」
「つまりね、鯛の尾頭付きは五千円なんだ。もちろん五百円にまけてくれないかと頼んでみたよ。でも現実にはそううまくはいかない。でもね、ジェイはアワビなら五百円でも買えると言ってくれたんだ。わかるかい?」
彼女は溜息をついて目を閉じた。
「ねえ、アワビでも食べない?」と僕は言った。
「まさか」
「何故?」
「とりあえずこのアワビを長屋のオーナーのかえるくんところに持って行ってちょうだい」と彼女は言った。
「それから?」
「今度、長屋のオーナーのかえるくんところの若旦那が結婚するのよ。そのお祝いに鯛の尾頭付きをプレゼントしたかったんだけど、そうしたら長屋のオーナーのかえるくんから祝儀に千円貰えるのよ。千円貰ったら半分の五百円を羊男さんに返して残りの半分の五百円でホットドッグとビールでも買おうかと思っていたんだけど、鯛の尾頭付きがないんじゃ仕方ないわ。代わりにアワビで千円貰ってきて。お願い」
「なるほど」と僕は言った。
「でも長屋のオーナーのかえるくんところに行ったら、そこできちんとした口上を述べなければダメなのよ。それを上手く言葉にするのはむずかしいことなの。だから私が今あなたにその口上を教えるから覚えていてくれる?」と彼女は言った。
「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。

「こんにちは、けっこうなカンガルー日和でございます。うけたまわりますれば、お宅さまの100パーセントの若旦那さまに100パーセントのお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋のみんなからもプレゼントが参ります。これはぼくたちからのプレゼントでございます」

「どう?ちゃんと言える?」と彼女は念を押すように言った。
「たぶんね」と僕は答えた。
「たぶんでは困るわ」
「そうかな」
「忠告していいかしら?」
「どうぞ」
「覚えないと損するわよ」
「上等さ」

 

 

「嘘つき!」

 

と彼女は言った。
僕は暗い心を抱えたまま長屋のオーナーのかえるくんの家まで歩いた。

 

 

 

4

 

「ねえ、かえるさん」と僕は言った。

「僕の事はかえるくんと呼んで下さい」とかえるくんは言った。
「けっこうなカンガルー日和ですね」
「カンガルーの赤ん坊を見るに相応しい天気ですね。それで、なにか僕に用事があるのかな?」
「こんにちは、けっこうなカンガルー日和でございます」と僕は言った。
沈黙。
「うけたまわりますれば、お宅さまの75パーセントの若旦那さまに・・・・」
沈黙。
「100パーセントのお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます」
沈黙。
「ところで」と僕は言う。「これはプレゼントです。それでもしよろしければ、形而上学的な千円を下さい」
「これはアワビじゃないですか?」とかえるくんは首を傾げて言った。
「そいうものです」
「これを僕の倅の婚礼祝いに?これはあなたの了見で持ってきたものですか?」
「いえ、僕にとって100パーセントの女の子の了見です」と僕は言った。
「婚礼祝いにアワビを持って来るというのは潜在的願望によってもたらされる復讐行為なのですか?」
「まさか」と僕は言った。
重い沈黙が続いた。
「磯のアワビの片思い」とかえるくんは言った。
「それで、つまり」
「縁起が悪いのです。アワビは殻が二枚貝の片方だけのように見えるから、片貝の片と片思いの片をかけて片方からだけの、それはつまり相手に通じない恋を言うのです」
「悪いけどアワビを持って帰って下さい」とかえるくんは腹を立てて言った。
「でもそんなのって、いくらなんでもヒドイじゃありませんか」


かえるくんに対して僕なりの誠実さでできるだけのことは全部やった。でも結局は上手くいかなった。
いったいどうすればいいのか見当もつかなかった。

僕が途方に暮れているところへ鼠が突然やってきた。
「やあ」と鼠は言った。
「何かしてたの?」
「うん」
「何んだい、それは?」
「アワビさ。実はかえるくんところの若旦那の婚礼プレゼントに持っていって、その代わりに祝儀として千円の精神的援助をお願いしたら、磯のアワビの片思いで縁起悪いからと言われてね」と僕は言った。
「アワビが縁起悪いのかい?不思議だね。俺にはよくわからない」と鼠はそう言った。
「そう思う?」
「もう一度かえるくんのところに行ってこう言うんだ」
「アワビが縁起が悪いだなんて馬鹿げているよ。君のところにくる贈り物に、のしが付いてくるだろう。君はそののしをいちいち剥がして返すのかい。アワビというものは、紀州鳥羽で海女が採るんだ。
そのアワビというのはのしにするんだ。アワビのしというのを君は知らないのかい?アワビのしにするには、後家でいけず寡婦(やもめ)でいけず仲のいい夫婦が一晩かかって作らなければできないんだ。
その根本のアワビをなんだって受け取らないないんだい?千円じゃ安いから五千円にしとくよ。とね、いいかいこれはタンカだ。タンカはとても強い口調で言わなければ意味がないんだ。そこでケツをまくることができれば、より効果的だ」と鼠は言った。
「ケツをまくる?お尻のことかい?」
「ああ、そうさ」
「お尻はまくれないよ」
「なぜ?」
「パンツは履いてないんだ」
「ノーパンなのかい?」
「ノーパンさ」
「やれやれ」