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村上春樹で読む古典落語 「あくび指南」編

 

なんじ兄弟の目にある物屑を見ておのが目にある梁木を感ぜざるは何ぞや。   

マタイ伝第七章第三節

 

 

 

 1

 

街にはいろんな人間が住んでいる。
僕は68年間、そこで実に多くを学んだ。
ほんの小さな街だ。
街の情景はいつもと同じだ。
どこにでもある街の情景だ。

死んでしまった友達と二人で通ったあるカルチャー・スクールのことを思い出した。


「あまり気が進まないな」と僕は言った。
「気が進む進まないの問題じゃない」と鼠は言った。



「あくびをすることについて
 語るときに
 僕の語ること」



僕は二十秒ばかりそこに立ちすくんで、口を半分開けて、その看板をじっと見上げていた。
僕はすごく驚いたのだ。

ごく控え目に表現して。

 

 

 

2

 

あくびをすることについて語ろう。
あくび指南役としてインタビューを受けているときに、「あくび指南役にとってもっとも重要な資質とは何ですか?」という質問をされたことがある。
あくび指南役にとってもっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である。

「僕は思うのですが、人は本来、誰かに頼まれてあくびをするわけではありません」

「あくびをしたいという強い個人的な思いがあるからこそあくびをするのです」とあくび指南役は言った。

「お話はよくわかりました」と鼠は言った。
「それで具体的に・・・・・・」

 

 

 

 

3

 

「では、動いてるのか停まっているのかさえわからないエレベーターのなかでのあくびの仕方を・・・・・・」とあくび指南役は言った。

あくび指南役はエレベーターの壁にもたれ、ポケットの中の小銭の勘定をして暇をつぶす仕草を始めた。

「エレベーターはおそらく上昇しているのだろうと思うことが大事です。あるいは下降しているのかもしれない、あるいは動いてないのかもしれない。エレベーターが上昇しているという根拠というほどのものはひとかけらもない。ただの推測だ。あらゆることを考えるのです。そして少しずつ不安になりなさい」

「考えるのをあきらめ不安になり始めたらズボンのポケットの中の小銭の計算をするのです」

「ポケットの中の小銭は合計金額3810円になるはずです」

「しかし、合計金額が3750円になるように計算するのです」

「小銭の計算をしくじったために手のひらから汗がにじんでくるのを感じるはずです。計算ミスは悪い兆しなのです。悪い兆しが明白な災厄として現出する前に、失地をきちんと回復しておかなければならない。自分がいささかの過信があったことを認めなくてはなりません。それが計算ミスをもたらしたのです」

「そして手のひらの汗が完全に乾いたらもう一度ポケットに手を突っ込みなさい」

「とにかく正確な数字を確認すること」

「小銭の計算ミスの救済はそれによってもたらされるはずなのです」

「しかし、救済にたどりつく前に・・・・・・」

「ここで何の前兆もなく、肺炎をこじらせた犬の溜息のようなあくびをするのです」とあくび指南役は言った。

あくび。

「いや、これはすごいぞ」と鼠は言った。
ビーチボーイズブライアン・ウィルソンの傑作ペット・サウンズを初めて聴いたとき以来だ。こんなに僕の精神を揺さぶり、心に強く響いたあくびは」と鼠はいささか興奮して言った。


やれやれ。
二人の話を聞いているうちに僕は頭のうしろ側がぼんやりとしびれていた。
僕の瞼は少しずつ重くなっていった。
僕は形而上学的な熱い砂浜を音もなく歩きつづけている。そういった気分だ。
退屈の水をバケツいっぱい頭から浴びながら、とても長い砂浜を歩き続けている。
潮の匂いがする。
太陽はひどく暑い。
風はまるでない。
水平線の上には何も見えない。
1983年。
僕は三十四歳になっていた。
波の音は少しづつ強まっていくようだった。
僕はひどく寂しかった。

そしてひどく眠い。

僕はつづけざまに三回あくびをした。

薄らいでいく意識の中で「素晴らしいあくびだ」とあくび指南役の声が聞こえた。