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JAPAN珍聞

ジャパンちんぶん

村上春樹で読む古典落語 「千早振る」編

1

 

電話のベルが鳴った。

僕はベッドに寝転び、天井を眺めながら、深い溜息をついていたところだった。
そこに電話のベルが鳴りだしたのだ。カンガルーの赤ん坊を見るに相応しい日の朝に。

「寝てた?」と女は探るように言った。「私のことを覚えてる?」
僕は少し考える振りをした。

「ねえ、こんな時間に電話をかけたのはたしかに悪いと思うわよ。心からそう思う。でもね、わたしだって聞くは一時の恥じだと思ってあなたに電話をかけたのよ。娘に勉強のこととか、いろいろ聞かれるのよ。参ってるの。あなたにだってわかるでしょう?さっきだって友達と一緒に花札でもやってるのかと思ったから、そう聞いてみたの。そしたら百人一首だっていうじゃない。私そんなのぜんぜん知らないわ」
「なるほどね」
沈黙。
「それで、なにか僕に用事があるのかな?」
「そうそう、あなたに教えてもらいたいことがひとつあったのよ。それでこうして電話をしているの」と女は言った。
「つまりね、ありわらのなんとかって人」
在原業平
「そう、なりひら。その人の歌う歌詞の意味を聞かれたのよ」
「たとえば?」
「千早(ちはや)ふる神代(かみよ)も聞かず竜田川(たつたがわ)からくれないに水くくるとはって歌詞の意味よ」
「娘にはちょっと買い物に行ってくるから、帰ってきたら教えるからってごまかして、あなたに電話をかけるためにまだ鶏が鳴く前の早朝にとぼとぼとここまで歩いてきたのよ」と女は言った。
「だろうね」
「本当弱っちゃったわ」
「いいかい、つまり竜田川は関取の名前なんだ。稀勢の里琴奨菊みたいな。それはわかるね」
「わかると思う」
「しかし、竜田川は田舎から出てきて一生懸命に稽古をしたとすれば、女も酒も博打もやらないということになる。つまり稽古の甲斐あって大関にまで出世するということになる。それはある客に贔屓にしてもらえるということなんだ。さらに言えば、両者は吉原へ夜桜見物に出かけるんだ。」
「そう」と女は言った。
「専門家はもっと正確な説明をするかもしれない。しかし吉原で花魁道中に出くわすんだ。それはすなわち美人なんだ。美人であるというのは千早太夫であるというのと同じなんだ」
「つまりあなたが言いたいのは、花魁道中が美人ということ?」
「そうじゃない。違う」僕は電話のこちら側で激しく首を振った。
「僕は今、千早太夫が美人だというのをわかりやすく説明しようとしているだけだ。つまり竜田川は100パーセントの千早太夫とすれ違ったんだ」
「それで」と女は退屈そうに言った。「竜田川は何かしたの?声をかけるとか、あとをついていくとか」
「茶屋に呼んだだけさ」
「聞かせて」
「正直に言うと千早は竜田川のことは虫が好かないんだ。だから代わりに神代太夫に行かせようとしたのさ」
「ふうん」と女は言った。

 

 

2

 

竜田川なんて・糞くらえよ」

神代太夫は憂鬱そうにそうどなった。
「姉さんが嫌な人は、私も嫌」神代太夫はそう言っておぞましそうに首を振った。

 

 

3

 

一週間ばかり竜田川の調子はひどく悪かった。秋の近づいてきたせいもあるだろうし例の女の子たち、千早と神代のせいもあるのかもしれない。とにかく相撲に身が入らなくなってしまったことだけはたしかなことだった。

 

 

「ねえ、竜田川はどうしたんだと思う」
「わからないわ」と女は言った。
「相撲を廃業して豆腐屋になったんだぜ」
「そう?」
竜田川の実家は豆腐屋なんだ」

 

 

4

 

入り口と出口。
春はどんどん深まっていた。風の匂いが変わっていった。そして季節は初夏に変わった。
五月の終りに竜田川は永らく家を空けた不幸を両親に詫びた。
一度相撲を廃業してしまえば、それ以上失うべきものはもう何もない。
時代が変わったのだ。それだけのことなのだ。
社会に戻るべき時だった。

 

 

5

 

10年間、竜田川は豆腐屋稼業を励んだ。10年間、長い歳月だ。
それはまったくのところ、労多くして得るところの少ない作業であった。
結局はそういう運命であったのだ。

 

 

竜田川が振り向いた時、一人の女乞食が竜田川を見上げていた。
「誰・・・・・・君は?」
「覚えてない?」
「千早?」
「ええ。もう3日も何も食べてないのよ。ねえ、オカラでもない?」
「どうだろう」と竜田川は言った。
とにかく竜田川は千早のために相撲を廃業したのだ。

 

そして張り手のシャワーがやってきた。

 

千早は突き飛ばされて井戸の中へ落ちた。
どこにも辿りつくことのできない深い井戸に。地下の虚無へ、オルフェウスのごとく下降してしまったのだ。

 

 

 

「ところで歌詞の意味は?」と女は訊いた。
「今話したとおりさ」
「わからないわ」
「千早が竜田川を振ったろう?」
「ええ」
「だから、ちはやふる。神代も言うこと聞かなかっただろう?つまり神代も聞かず、オカラもあげなかった。それは、カラくれないに、ということなんだ」
「じゃあ、水くくるというのは?」
「井戸の中の水を潜るということ」
「とは、というのは?」
「とは・・・・・・」
「とは」
「ふうむ」
「まだ眠いの?」
「もう眠くない」
「元気?」
「元気だよ。春先の隅田川みたいに」と僕は言った。
「とはというのは千早の本名だよ。つまり、千早は源氏名なんだ。簡単に言えば、それがこの歌詞の意味だ」
「いつも思うんだけど、あなたはものごとを説明するのが上手ね」
「どういたしまして」