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JAPAN珍聞

ジャパンちんぶん

村上春樹で読む古典落語 「時そば」編

1

今、僕は語ろうと思う。
1973年の冬、この話はそこから始まる。それが入り口だ。
物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。

 

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夢の中で僕は屋台に飛び込んでいる。
目が覚める。
「ここはどこだ?」と僕は自身に問いかける。
でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。
ここは屋台なのだ。

 

2

この話は1973年の寒い冬の夜に始まり、明くる晩、つまり同じ寒い冬の夜に終わる。

 

3

「寒いね」と僕は声をかける。
「こんばんは」と彼女は言う。
「何かできる?」と僕は彼女に訊ねた。
「お蕎麦」と彼女は言った。
「素敵」と僕は言って微笑む。
「どう?景気は?」と僕は言った。
「あなたって嫌な人ね」と彼女は静かに言った。
「そうだな、そうかもしれない」と僕は言った。

 

@@@@

 

彼女はセーラー服を着たまま、温かい蕎麦を作り、アイスコーヒーと一緒にテーブルまで運んでくれた。
「七味唐辛子はなかったわ」
「上等さ」
「僕がいちばん好きな事、何かというとね」と僕は彼女の目を見ながら言う。
「清潔な割り箸で、素敵な丼を持ちながら、鰹ダシの香りを嗅ぎつつ、コシのある蕎麦を啜ることなんだ」
しかし竹輪は厚く切ってなければ100パーセントの蕎麦とは言えない。
そして75パーセントの蕎麦や85パーセントの蕎麦を食べたりもしてきた。

 

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僕は冷たいアイスコーヒーで口の中の蕎麦を嚥み下してからじっと彼女の顔を見た。
「実はこの脇で30パーセントの蕎麦を食べてきたんだ。」
「ここの蕎麦は口直しさ」と僕は言った。
それから僕は彼女に勘定を訪ねた。
「いくら?」
「16文よ」
「小銭で構わないかな?」
「いいわよ」
「それじゃあ、手をだして」

 

「僕が数えるから」

 

と僕は言った。

 

「1、2、3、4、5、6、7、8、今、何時かな?」と僕は訊ねた。
「9時よ」
「じゅう、11、12、13、14、15、16」
僕は勘定を払って屋台をあとにした。

 

@@@@

 

壁にもたれかかりながら鼠がその様子を眺め続けていた。
「やれやれ」
「なかなかやるね」と鼠は言った。

「1、2、3、4、5、6、7、8・・・・・・あいつはここで時間を聞いたのさ」

 

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「今、何時かな?」
「9時よ」

 

@@@@

 

「じゅう、11、12、13、14、15、16」

 

@@@@

 

16文?
計算が間違っている。
「ほらね、1文足らないぜ」と鼠は言った。

 

「僕もやってみるとしよう」と鼠は笑って言う。

 

4

鼠は夕方前に目を覚まし、枕元の煙草を手に取って火を点けると、溜息と一緒に煙を吐き出した。それから猫にキャットフードをやった。
そして床に座って昨晩起こったことを何度も何度も思い返して、整理してみた。
でもとにかく、屋台を捕まえよう。屋台を捕まえることから全てが始まる。
終り。
さて、と鼠は思った。
屋台を捕まえる時だった。

 

5

「ねえ、寒いね」と鼠は訊ねてみた。
彼女は鼠の言ったことについてしばらく黙って考えを巡らせていた。
「どうかしら、わからないわ。そういうのは個人差のあるものだから。でも寒いと感じたら寒く感じるんじゃないかしら。とくに気にすることないわ」とやがて彼女が言った。
「景気はどう?」
「あなたに関係ないわ」
そのとおりだった。
鼠はカウンターの端の席に座り、厨房を見回してみた。見なれないセーラー服を着た女が一人、それだけだった。

鼠はアイスコーヒーと蕎麦を注文してから、本を取り出し、ゆっくりと蕎麦が出来上がるのを待つことにした。
屋台には程よい音量でジェリー・マリガンの古いレコードがかかっていた。

「お待ちどおさま」
「ありがとう」
「割り箸かい?」
「割り箸よ」
「割れてるよ」
「使い回し」
「割る手間が省けていいね」と鼠は言った。
「黙って食べなさい」と彼女は言った。
「うまく言えないけど、」
「器が欠けてるんじゃないかな」と鼠は訊ねた。
「不思議。そう見えるなんて」と彼女が言った。
「ねえ、少しお湯を足してくれないかな?それに蕎麦もずいぶん太いね。それから竹輪も薄いみたいだ。しかしそれだけだ。それ以外には何もない」

 

@@@@

 

「いくら?」と鼠は訊ねた。
「16文」
「小銭だけどいいかな?」と鼠は訊いてみた。
「ええ」と彼女は言った。

 

「手を出して僕が数えるから」と鼠は言った。

 

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「1、2、3、4、5、6、7、8、今、何時かな?」
「4時よ」
「5、6、7、8・・・・・・」